看板のデザイン

 
通勤電車を見渡すと、最近はスマートフォンでゲームやチャットをしたりニュースを読んでいる人の姿が多いですね。ラッシュ時の混雑は誰にとってもつらいもの。毎日のことですからできるだけ快適に過ごしたいですよね。私は新聞や本が開けないときは、中吊り広告を見るようにしています。といっても内容を読んでいるわけではありません。広告主には申し訳ないですが、主に見るのはデザインです。広告には必ずデザイナーがたずさわりますし、ひとりひとりの個性が出ます。もちろん商業広告ですから様々な規制があります。大きさサイズはもちろん、クライアントさんの要望であったり、それと食違うような代理店の方針であったり、抽象的な指示だけで任せると云いながら締め切りぎりぎりのところで大量の修正を押し付けてくる上司であったりと、そういう環境で縛られて窮屈になりながらも、デザイナーさんは仕事をこなしていくのです。そういう目でみていくと、この広告は上手に要望をすり合わせたな、とか、これは時間がなくて端折ったな、とか、このバランスは巧いな、とか、ちょっと評論家気取りの見方ができるわけです。一枚の広告の背景、そこにたずさわった人たちの人間模様を想像すると、なかなかに退屈しません。
 
一週間も変わり映えのしない中吊り広告だったりしたときは、車窓から看板を見るようにします。近くから遠くまで、できるだけ目立つもの、見たことのないものを探すようにします。派手な看板は目立ちますが、それが必ずしも良い看板とはかぎりません。看板を設置する位置はほとんどの場合あらかじめ決まっているわけですから、歩道や車道からの方向や見上げる高さ、移動するものに対しての視認性などによって、文字や絵、色彩のバランスを整える必要があります。その上で、最終的に美しくなければいけないと思います。美しく、といっても芸術性とは違います。流れが整っているという意味です。刺さるほどとんがっているインパクトの強いデザインの看板でも、流れが整っていれば美しいですし、逆に西洋絵画のような看板でも流れが乱れていると美しくありません。
 
車窓から見えるもので、いくつか素晴らしいと思う看板があるのですが、その中でも実家へ帰省する電車の途上、最寄駅から三駅ほど手前の国道沿いにある看板がいまのところ私の一番のお気に入りです。それを見るたびに「よし!」と思うのです。看板は、そこにあるだけで看板としての役割を果たしていればそれで良いのかもしれません。でも、人に見られてこその看板ですから、本来の意味でなくとも誰かの気持が動くのは良いことだと思います。通勤電車の中でも、ちょっとした発見や活力のポイントがあると、気持が良いものですね。